新型コロナウイルス感染症禍における当法人の意思表明
長期化する新型コロナウイルス感染症禍において、当法人では役職員・学生チューターが「自分たちに何が出来るのか」を議論、そして行動を重ねてきました。
今回、その「思い」を意思表明として、代表理事・副代表理事より発信させていただきます。
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「生きる」を、諦めない。
新型コロナウイルス感染症が広がっていく中、命を守るために、「自粛」要請が相次いでいる。外出を避け、人との接触を減らし、感染を減らしていくこと。1人1人が「自粛」することで、社会全体の命を守ることが、何より大切だと思う。
でも、どこか、息苦しさも感じる。頭や心が制限されていくような感覚。嬉しい、楽しい、悲しい、辛いの感覚すらも、「こう感じないといけない」と要請されているような感覚。
これをしちゃいけない、あれをしちゃいけない。これもダメ、あれもダメ。そんな毎日を過ごす中で、「これは合っているんだろうか?」と「正解」を求めてしまう日が増えた気がする。
「コロナ」が起きる前から、社会はそんな「正解と不正解」の病理に憑りつかれている気がしてならない。
「当たり前」や「普通は」という言葉で表される正解。その「正解」のレールから必死に脱線しないように生きる毎日。そうかと思えば、隣のレールを見て「自分はダメだ」と劣等感に苛まれるような毎日。「正解」を求め、傷つき、落ち込み、自信を失う。少なくとも、自分はそんな病理に取り込まれた1人と思っている。
「生きること」に「正解」なんてないのに、「正解」を求めてしまう自分。
「正解」にいることで安心して、「不正解」を「正解」に導こうとする自分。
TEDICが大切にしてきた言葉「自分の人生を、自分で生きる」という言葉は、自分へのおまじないみたいな言葉だ。
「命」があるだけで、人は「生きる」ことは出来ない。
「自分」が裸の「自分」として、毎日を選択すること。
そんな選択の毎日に、楽しいと思ったり、
悲しいと思ったり、愛おしいと思ったり。
それが、「生きる」ことなんじゃないかと思う。
TEDICを立ち上げてから9年間、たくさんの子どもたちに出会ってきた。
震災で家族を失い打ちひしがれていた子ども。
親に殺されそうになり命からがら生き延びた子ども。
親の都合に振り回され長期のひきこもり状態になった子ども。
性被害にあった子ども・・・。
フリースクール、夜の居場所、アウトリーチ、相談支援、ありとあらゆる手段で、関係機関とも連携しながら、「命」を失いそうになった彼ら・彼女たちを必死に支えてきた。
でも、「命」を繋いだその先で、「生きる」ことを諦める姿もみてきた。
「命」はある。でも親の顔色をうかがいながら生きないといけない、見えない誰かにおびえながら生きないといけない。気づいたら社会の病理に巻き込まれ、息が苦しくなり、消えたい、死にたいと思う、そんな子どもたちを見てきた。
諦めないのは「命」だけじゃない。「生きる」こと、そのものだ。
これは自分たちが関わってきた、子どもや若者たちに向けた言葉だけじゃなく、自分たち大人にも向けたおまじない。
TEDICは、「生きる」を、あきらめない。
とにかく、今出来ることに思いっきりぶつかってみます。
代表理事 門馬優
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「贈り合いでつながり、小さな幸せを生む。」
そんなカタチを一緒につくりませんか?
4月に入って、TEDICの事務所はなんだか空っぽになってしまった。
テーブルや備品はそのままなのに、何かなくなってしまったそんな感じがする。
これまでのように子どもたちがいない、子どもたちに寄りそう大学生がいない、
そこで行われていた雑談も笑い声も、あったかい空気感もなくなってしまった。
TEDICの事務所だけではなく、今同じようなことが日本中でおきている。
人とつながることを制限されている僕らは、仲間とのつながり、
子どもからのありがとう、心と身体がやすまる居場所、挑戦する環境を失った。
東北では、「東日本大震災と同じ空気感だ」という声、
「あの時よりも辛い。」って声を聞く。
どちらもそうなんだろうな。
そして、東北以外で辛い災害や困難を経験した地域も同じなんだろうな。
何が違うのか、大きく違うのは、
「ヒトとつながれないこと」 なんじゃないか。
何か出来ることはないかという思いで被災地に行き、逆に元気をもらった
苦しい思いをしたはずの人たちから生きる希望をもらった
街頭募金をしていた時に、なぜかありがとうって言われた。
今はどこかに行くことも出来ない。会って直接話を聞くことも憚られる。
活動もしづらい。
けど、本当に大切なことは僕らの中にあるんじゃないか。
あの時、元気をもらったり、心があったかくなったり、パワーをもらえたのは
目に見えない何かをもらったり、お互いに贈りあったからじゃないだろうか。
僕らが今考えなきゃいけないのは感染者を増やさないこと。
それとヒトとのつながりを断つことは違う。
ハグができないなら、ハイタッチができないなら、そっと肩に手を置けないなら、
心を込めた言葉で、モノで、つながれる。
僕らはそんなカタチをつくりたい。これまでつながってきたヒトたちと。
これからつながるヒトたちと。
つながることを諦めないし、諦めさせない。
それを諦めさせようとする「ナニカ」に屈しない。
わたしたちTEDICは、子どもたちや今苦しい思いをしているヒトたちと、
誰かを応援したい・力になりたいヒトたちがつながり、贈り合い、混ざり合って、そこから何かが生まれるコトをはじめます。
力を貸してくれるヒト、一緒に走るヒト、
応援してくれるヒトよろしくお願いします。
副代表理事 鈴木平